シコウ錯誤の日々

ナル(4歳男児)とトモ(2歳男児)のハザードレベルを上げるために日々奮闘中。

「情熱の炎になるかもしれない小さな種火」 東大卒プロゲーマー感想

  

東大卒プロゲーマー (PHP新書)

東大卒プロゲーマー (PHP新書)

 

 

東大卒プロゲーマー。

東京大学を卒業して、プロゲーマーとなったときど氏のこれまでを、本人が著した自伝的な内容の本である。

 

前々から気になっていたこの本をようやく購入して、読み終えた。

読み終えた後、久しぶりに胸に熱いものが込み上げくるような本だった。

正直、気付くと思わず泣きそうになっていた。

 

この本は一人の男の成長物語であり、教育書であった。

私の考えていた子供を育てる上での一つの方針を、一冊の本にしてくれたような本だったのである。

 

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なぜプロゲーマーになったのか 

私も格闘ゲームブームの直撃世代である。

思えば、高校1年~大学4年まで、私もゲームセンターの住人だった。

なので、格闘ゲームでプロとなったこの本の著者であるときど氏や、日本初のプロゲーマーとなったウメハラ氏のことは多少は知っている。

だが、彼がこれまでどのような人生を歩んできたのかは、この本を読むまでは知らなかった。

 

 

東京大学を出てまで、なぜプロゲーマーになったのか。

普通の人なら、そう考えるだろう。

 

そんなにゲームが好きだったのか。(気持ちは分かる)

まあ、取り敢えず東大卒という肩書をつけて、本当にやりたいことをやったのかな。

そんな風に勝手に想像していた。

だが、そこには一人の人間が経験した、挫折や悩み、そして決断があったのだ。

私は一人の人間の成長物語として、舞台がゲームであることもあり、引き込まれていった。

 

彼もまた、我々と同じように幾つもの挫折を味わい、その度に立ちあがり、そしてまた調子に乗って失敗して、また立ち上る。

それを繰り返す。

実に人間臭い。

 

そして、彼が得た結論。

「論理は結局、情熱にかなわない」

つまり、最も大切なものは情熱だ、という事をこの本の中でときど氏は述べている。

 

だが、本人も最初からそれに気づいていたわけではない。

挫折し、立ち上り、試行錯誤して来た日々を振り返り、きっとそれに気付いたのだろう。

まるで、メーテルリンクの青い鳥のようにだ。

 

 

印象深いエピソード

本書の中で印象深いエピソードが幾つかある。

 

一つは、ときど氏が勉強とゲームの共通点を述べた部分である。

彼は対戦ゲームの攻略のノウハウで、東大受験を成功させたと述べている。

 

それは、ゲームでもスポーツでもなんでも、本当に真剣に取り組んだことからは多くのことを学ぶことができるということだ。

例え遊びでも真剣に探究や試行錯誤することは、多くの学びを得ることができるのである。

そして、それは他の分野、例えば勉強にも応用が利くのだ。

嫌々知識を詰め込むための勉強をするぐらいだったら、本当に興味があることを追求した方が良い。

これは、私も実体験として持っている。

 

 

そして、もう一つ。

とある失敗により最大の挫折中に、大学時代の研究の恩師とも言えるSさんに「また一緒にやろう」誘われた時の話だ。

 

Sさんはときど氏に学術研究への情熱の炎を点火させた、張本人である。

その時、ときど氏はSさんの情熱頼りで良いのだろうか?と悩む。

そして、自分自身でたった一人でも情熱を持ち続けることができるものは何か?と考えて、違う道を進むのだ。

 

情熱の炎は伝播する。

だが、自らも情熱を燃やせなければ、いつかはその炎は消えてしまうのだ。

 

そして、ときど氏はその後、たった一人でも情熱を持ち続けることができるものとして、研究でもなく、就職でもなく、ゲームを見出してプロゲーマーになっていく。

 

幼いころから没頭したゲーム。

大好きなゲーム。

それが、彼が最後に辿り着いた結論であり、プロゲーマーになった理由であるというのは、この本を読んでいくと自然と納得できるのである。

 

 

「やりたいことをやる生き方」 と 「やりたくないことをやらない生き方」

ときど氏と私には幾つかの共通点がある。

感情よりも理性を優先させ、合理的であることを判断の根拠に置く。

私も格闘ゲームにはまり、大学で研究に没頭したが、挫折した。

(勿論、それぞれの分野での成果は、遠く及ばないけれども。)

 

 

問題:「やりたいことをやる生き方」 と 「やりたくないことをやらない生き方」 どちらが幸せでしょうか?

  

もちろん、この問いに正解は無い。

 

 

ときど氏は「やりたい事をやる生き方」を選び、私は後者の「やりたくない事をやらない生き方」を選んだんじゃないかという気がする。

 

22歳の冬に、私も同じように悩んでいた。

このまま大学院に進んで、がっつり勉強して、良い会社に入ったり、研究者なりを目指したり、立身出世を目指す。

この生き方がどうしてもしっくりこなかった。

目の前に広がる道がむしろ罰ゲームにすら思えた。

そこで、私は入学が決まっていた大学院進学を取りやめたのだ。

 

私はどうしても素晴らしい景色を見るために、高く険しい山に登ろうとは思えなかった。

だから、自分の磨き上げた能力を全力で使ってのらりくらりと生きていく道を選んだ。

そして、これが自分の特性なのだろうと、ずっと思っていた。

 

だが、この本を読んで気付かされたのだ。

私は情熱を燃やす対象を見つけることが出来なかったのだ、と。

だから、私は正反対の道を進んだときど氏に心打たれ、本を読み終えた後にこみ上げる想いに涙しそうになったのだ。

 

私が不幸であるということではなく、自らが選ばなかった破天荒な道を往ったときど氏に心打たれたのである、

 

 

父親になった私に出来ること 

もっとも、私は今更ときど氏を目指そうとは思わない。

ただ、ナルトモが情熱を燃やすことが出来るようなものに出会ったとき、全力それを支援するような親になりたいと思う。

もし、私が情熱を燃やすものがあるとしたら、そんな親になるためにであろう。

 

  

本書の中で窺い知れるだけでも、ときど氏の両親は滅茶苦茶支援してくれている。

麻布中学への中学受験への支援。

格闘ゲーム三昧の生活を送れるだけのお小遣い。

中学の頃は成績下がりまくっても気にしない。

アメリカのゲーム大会に出場するための資金。

1浪して東大を目指すための支援。

大学院への進学費用や生活費。

などなど。

 

 

そして、そうやって築き上げたものを反故にするような、プロゲーマーという道を選択したときに「好きにやれ」と言って応援してやれる度量。

 

この親にして、この子ありという気がするのである。

 

 

 

情熱の炎の小さな種火

何かに情熱を燃やしている人間というのは美しい。

自らの放つ炎によって輝いて見える。

その炎は伝播し、まわりを巻き込んでより大きな炎になっていく。

誰もが破天荒な道を往けるわけではない。

だが、たとえ大きな炎となれず燃え尽きてしまったとしても、それは幸福な生き方と言えるんじゃないだろうか。

 

そして、何よりも大切なことは情熱というものは親が授けてやるものではないということだ。

子供が自分自身の中で見つけてくるものなのだ。

 

親が敷いたレールの上を走り、頂点を目指す物語であったならば、私はこの本にそれほど心動かされることは無かっただろう。

それほど、情熱の炎を美しくは感じなかったことだろう。

 

 

何だかんだ言って、ときど氏は恵まれていたのかもしれない。

素質にも、環境にも。

だが、環境は親が準備してやるものである。

そして、好奇心や探究心といった、やがて情熱の炎になるかもしれない小さな種火を消さないように守ってやるのは親の務めであろう。

  

あとは、親に出来ることは、その情熱の炎に負けない強い心身を育ててやること。

そう導いてやることだけなのだろう。

そして、幸福にも子供がその対象を見つけることが出来たならば、どんな道であろうと全力でサポートしてやる。

 

この時代、そんな対象を見つけることができれば本当に幸いだと思う。

ナルトモが情熱を燃やすものを見つけてくれることを、心から願う。

 

 

 

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