「幸福について」 どうやったら幸福になれるのでしょうか
将来、ナルとトモにどんな大人になって欲しいのか、マコと少し話をしたことがある。
マコも私も望むことはただ一つ「幸せになって欲しいね」ということで一致した。
幸福について考えるとき、私には忘れられない出来事がある。
1997年、今からもう20年も前になるのか・・・
その事実に驚かされるが、当時大学生だった私は膨大なモラトリアムな時間を持て余し、色々と思考錯誤していた。
ちょうどインターネットの黎明期のころでもあり、思考錯誤したことを自分のホームページを作って発表したりと、まあ今考えれば、自分の内側の世界で自分探しをしていたのだろう。
日々 思考錯誤する当時の私の興味の対象の一つに、宗教があった。
1995年の地下鉄サリン事件の数年後である。
社会の目は宗教に、特に新興宗教に対しては懐疑的、否定的な時代であった。
当時、私は特にそういった新興宗教と呼ばれるような人たちに興味を持ち、話を聞いたりしていた。
その中の一人に、エホバの証人の信者の人が居た。
鈴木さんという。
この人は、「目覚めよ!」という雑誌を、定期的に届けてくれた。
私はしばしば鈴木さんを部屋に招き入れ、長い時には数時間 話を聞いたりした。
もちろん、そんな私を友人たちも、当時付き合っていた彼女もおかしなやつだと思っていたに違いない。
だが、あまり心配はされていなかった気がする。
鈴木さんとの話の内容は、エホバの証人の世間で言われているような輸血禁止にまつわる問題についてだったり、宗教の進化論の捉え方だったり、そもそもの神は存在するのかという話だったりした。
要は議論好きな大学生が、宗教家に論戦を吹っかけていたのである。
一度だけ集会的なものにも参加したが、私はエホバの証人という宗教に興味があったわけではなく、鈴木さんに興味があったので醒めたものであった。
そんなある日、1997年の晩秋のある大雨の日の夜のことだ。
当時住んでいたアパートのインターホンが鳴った。
こんな大雨の日に誰だと思って出てみると、鈴木さんだった。
「雨なので今日はこれを渡すだけですが・・・」
外はものすごい土砂降りで、鈴木さんもずぶ濡れだった。
鈴木さんは、出たばかりの新しい冊子を私に渡して、合羽を羽織りスクーターに跨ると、再び大雨の暗い闇の中に消えて行った。
その姿は、今も私の心の中に残っている。
鈴木さんは客観的にみれば不幸なのかもしれない。
彼は天涯孤独の身だと言っていた。
何があったのかは詳しく聞けなかったが、そのあたりに彼が信仰に身を投じた理由の一つがあったのかもしれない。
だが、主観的にみればおそらく最高に幸福だったのだろう。
彼は自らの意志で、嵐の日に冷たい雨に打たれながら、自らが正しいと信じる道を突っ走って行った。
あの日、私は鈴木さんの幸福に少しだけ嫉妬した。
私は時々、幸福とは何かを考える。
私やマコに願われるまでもなく、人と生まれたからにはナルとトモも幸福になりたいと願うのだろう。
なりふり構わず、周囲を不幸にして自分だけが幸福になったとしても、世界の幸福量はマイナスかもしれない。
周囲をたくさん幸福にして、世界の幸福量を増やしたたとしても、当の本人は不幸かもしれない。
マコの考える幸福と、私の考える幸福は違うのかもしれない。
マコはその優しさから、ナルやトモが幸福で温かい人生を送ることを願っているに違いない。
もちろん、私にもその気持ちが無いわけではないし、事実そうなるよう願っている。
今、私は幸福だ。
それは、胸を張って言える。
だが、 ふと あの日の鈴木さんのことを思い出すのだ。
冷たい雨の暗闇の中に消えて行った、赤いテールランプのことを。