通過儀礼無き時代に「父親」になるための方法
2014.10.5 父親への修業中 ぎ こ ち ね え wwwww
男の覚悟
男性には子供の頃からあまり父親になる覚悟を育てるイベントというものはない。
一方で、成長の過程で自分が働いて家族を養う覚悟というのはある程度している。
だから、仕事については結構頑張れる。
それは、自分の父親を見ているからかもしれない。
あるいは、ジェンダーロール的な男性の矜持からくるものなのかもしれない。
幼いころから、働いて家族を養う存在=父親という図式であった昭和の父親を見て育った。
そして、自分もそうあるべきだという覚悟をして大人になってみたら、求められる父親像が大きく変わっていた。
これが今の父親たちの悲しいところだろう。
「思ってたんと違う」と、愚痴ったりするかもしれない。
柔軟な頭の持ち主であれば、そこはそこで切り替えられたりするのだろう。
だが、誰もがそうできるわけではない。
何しろ小さい頃から目指していた父親像なのだから。
彼らは話が違うとふて腐れて、かつて自分の目指した時代遅れになってしまった父親像を模倣するかもしれない。
何しろ、彼らはそれ目指して、そして努力して来たのだ。
少し前に炎上した牛乳石鹸のCMには、そんな父親たちの悲哀が感じられなくもない。
何も洗い流せやしないけどね。
女の覚悟
女性はいつかは子供を産むということを小さな頃から考え、覚悟している人もいるだろう。
自らがこの世界に命を生み出し、生み出した命を責任を持って育ててやるという覚悟だ。
そうでなくても、妊娠して十月十日かけて子供を自らの体で育て、悪阻をはじめとするトラブルを乗り越え、命がけで出産して生物的な意味で母親になる。
母親になる覚悟というよりも、陣痛の痛みに耐え、命をかけて子供を産むという行為は覚悟なしじゃ出来ないことだろう。
そして、子供が生まれたら生まれたで、傷ついた体のまま、授乳が始まり否が応でも役割としての母親になる事を求められる。
自分が生みだした新しい命はまだまだ小さく、これから自らの乳を与え、世話をしないとすぐに命が尽きてしまうのだ。
産婦人科から退院してきたら、彼女はもう母親である。
一方で、彼の方はというと、未だ父親ではない何かだ。
女性は妊娠出産という命を懸けた一大イベントで強制的に母親になるが、男性にはアステカ式出産でもしない限りそんな劇的なイベント(通過儀礼)は用意されてはいない。
アステカ式出産:妻が初めて出産するとき、夫は金玉にヒモをつけて天井の梁の上に待機する。
そして、陣痛に苦しむ妻がヒモを引っ張り夫も痛みを共有する方法(真偽不明)
通過儀礼無き世の定め
だからなのか、正直いつまでたっても父親になれない男性ってのは、同性から見ても結構いるものである。
子供と大人の境界が曖昧なように、これが通過儀礼無き世の定めなのかもしれない。
父親も家事育児するべきという『べき論』は強制力の非常に小さいルールに過ぎない。
それは、『イクメン』という言葉と同じで、既に家事育児やってる父親を守る盾にはなってくれる。
だが、やる気のない父親の動機づけにはなりにくいのではないだろうか。
将来的にはケーススタディによる「教育」により新しい父親像が作られることだろう。
上の世代のイクメン達がモデルケースにもなってくれるだろうし。
だが、現在進行形の今の時代は、妻に殴られるか、子供に関わっていくうちに楽しくなるか、妻が父親を育てるといったイベントを夫婦で起こすしかないのだろうと思う。
私の自覚
私に「いつ父親の自覚が生まれたか?」と言われたら、正直よく覚えていない。
産婦人科に入院しているマコのもとに毎日通っていた頃だろうか。
里帰り出産したマコの実家に仕事終わりに毎日顔を出した頃だろうか。
初めておむつを替えた時だろうか。
初めて沐浴をさせてやった時だろうか。
慣れない育児に疲弊して泣いたマコを抱きしめてやった時だろうか。
とりあえず、まだ覚悟もないけれどもわからないなりに無理やり育児にかかわっていく中で、気づくとどうにか父親と呼べるぐらいにはなっていたという感じだろうか。
覚悟のススメ
結局は父親になるために必要なのは、覚悟だけなのかもしれない。
ロープ一本で断崖絶壁から飛び降りるための覚悟。
育児の当事者になろうと、一歩踏み出す覚悟。
本当の意味で、家族を背負って生きて行く覚悟。
強がりでも、虚勢でも良いのだ。
押されてから飛ぶんじゃない。
ただ、その一歩を自らの意志で踏み出せるかどうか。
それだけが、父親になれるかどうかを決めるのかもしれない。
アステカ式出産は、母親と父親で『痛み』を共有しようとする儀式ではない。
きっと、親になる『覚悟』を共有しようとするための儀式なのだ。