「育児の目線」 人生のネタバレ
目線をどこに置くか
子供と関わる際に目線をどこに置くかという話をマコとする中で、夫婦で共通している育児の方法論として目線が低いということに気づいた。
二人とも子供目線というものを、無意識のうちだが非常に大切にしているようである。
マコは褒めるというよりは、共に喜ぶ。
何かが出来たことを、子供と一緒に喜ぶ。
ナルトモが何かに挑戦して、上手くいった時に一緒に喜んでやる。
何かに失敗してしょんぼりしているときに、一緒にしょんぼりしてやる。
そういうことを大切にしているらしい。
私は褒めるのだが「やるじゃないか!」と、友人や同僚のように称賛する。
友人のように、ライバルのように、同じ男として、視点を出来るだけ下げて、同列から何かできた時に認めてやる。
最近ナルは「おとうさん、できんかな~ っておもってた?」と、私の予測を超えて何かができた事を非常に誇らしく語る。
私は出来るだけ身近な存在である父親を目指しているので、失敗して見せたり、駄目な部分も存分に見せてやる。
理想はナルトモの兄目線である。
車で出かける際には、わざとシートベルトを締めずに出発しようとして、ナルに注意してもらうのが最近のお決まりである。
年始にテレビに接続していたハードディスクが壊れてしまって、録画しておいたお気に入りの番組が消えてしまった際も、ナルを慰めるのではなく、『シン・ゴジラ』の録画が消えてしまったことを嘆き悲しむ姿を見せたりもした。
(マジで凹んだわ~)
フラットな目線
「褒める育児」というのがあるが、これは親の視点で少し先のことも見据えながら、やるものである。
小さなことでも褒めて、自信をつけさせて、自己肯定の心を養う。
大人として、親として、先のことを見据えて行うものだ。
一般的には「褒める」という行為は、親の視点、上からの視点の行為になるのだろう。
(悪い意味での上から目線ではない)
大人として、親として、先まで見通せる視点というのは必須である。
だが、子供の低い視点では、先のことなどさっぱり分からない。
見ているものが違うと、話が噛み合わなかったり、上手くいかないことがあるのだろうなと思う。
大人の目線というのは、時として先のことが見え過ぎている。
大人の目線というのは、時として遠くのことが見え過ぎている。
勿論、親として大人として、ある程度の方向性を決めてやることは必要なので、大切なのは伝え方なのかもしれない。
伝えたいことがあるのであれば、導きたい場所があるのであれば、一度目線を落として一緒に道を探すのが良い気がする。
この育児方法は導くというよりも、共に歩むという方法なのだろう。
まず子供の目線でしっかりと今見えるものを見る。
ゴールに固執せず、どう歩むかを大切にする。
大人はいろいろ知り過ぎている。
あまり人生のネタバレをし過ぎないようにしていきたいものである。