シコウ錯誤の日々

ナル(4歳男児)とトモ(2歳男児)のハザードレベルを上げるために日々奮闘中。

「祝!ナル入園!」 育児が終わり、教育が始まる

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入園おめでとう!

4月11日。

桜はすっかり散ってしまったけれど、ナルは無事に幼稚園に入園致しました。

「おめでとうございます!」

プレ保育でお世話になっていた顔見知りの先生に言われて、初めて今日がおめでたい日だったのだと気付いてみたり。

今日から3年間、お世話になります!

 

当日の流れは、最初に名札と資料を受け取って、教室に移動してカバンやら荷物を置いて、体育館で入園式。

入園式では理事長、園長先生の挨拶の後、年長組さんの激励、職員の紹介。

その後、教室に一旦戻って、再び体育館で記念撮影。

再び、教室に戻って、簡単な説明を受けて、少しだけ遊んで歌ってさようなら。

 

時間にして数時間なんだけど、何だか非常に疲れた。

多分、トモがグズグズだったからだな。

100人以上の子供がいる空間でも、トモの泣き声が判別できたよ。

 

ナルは新しい制服や新しい教室や新しい友達に少し戸惑っていたけれど、1年間通ったことのある幼稚園なので、まあ大丈夫でしょう。

今日はお父さんもお母さんもいたから甘ったれていたけどね。

 

何かと慌しかったので、入園式には感動ポイントは特に無かったな。

(あれ、入園式って感動イベントだっけ?)

今日はナルよりも年長組さんの頼もしさの方が、何か胸に来るものがあった。

頼もしくなりやがって、って感じで。

2年後にはナルもあんなに頼もしくなるんだろうか。

 

その時、立派に大きく成長したなと比べられるように、大きくなった姿を褒めてやれるように、今日という日の事をしっかり覚えておこうと思った。 

 

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育児から教育へ

園長先生の話を聞いて感じたのが、やはり幼稚園というのは最初の学校であるということだった。 

最終学歴ならぬ最初学歴である。

 

幼稚園というのは、ただ子供を預かって貰うところではないのだ。

何かを学ばせるために、目的を持って通わせる場所なのだろう。

そういう意味では、ナルの育児はそろそろ終盤である。

これからは、教育が始まるのだ。

  

 

ルールを学び、マナーを学び、自分の身を守ることを学ぶ。

これがナルの通う幼稚園で、園が子供たちに3年間で学ばせたいことであるという。

 

私はルールはあまり守っていないので耳の痛い話であるが、ナルにはまずは大いに守って欲しいものである。

そして、いつかルールは誰かが作ったものであり、変えても良いものだということに気付いて欲しいものだなと、やや飛躍しながら考えていた。

(なお、私はマナーはわりと守る)

 

教育について

私は何か特別に『教育』について学んだことは無い。

 

「不思議なもので、教育という分野に関しては、まったくといっていいほどの素人でも自分の意見を述べたがるという現象がしばしばおこる」

「どこかの誰かが子育てに成功したからといって、同じ事をしたら自分の子供も同じように成功するという保障はどこにもありません」

これは、私の愛読書の『学力の経済学』の一説である。

 

 

教育は難しい。

漠然とだがそんなことを感じている。

 

育児の最大の目標は、ナルを死なせずに育てる事だった。

だが、教育は少し目的地が違う。

教育の目的地は、大雑把に言えば、将来、親がいなくなっても大丈夫なようにすることなのだろう。

 

ここからは、ナルには出来る限り自分の身は自分で守って貰うことになる。

いつまでも手を繋ぎっぱなしというわけにはいかないのだ。

まだ、あどけなさが残る顔だが、1年前の写真と見比べると随分と少年らしくなってきた。

繋いだ手を、子供を信じて離すときが近づいてきた。 

 

毒と薬

教育は素晴らしいもので、人間の成長には必須である。

だが、私が薬になると思って与えたものが、ナルには毒になるかもしれない。 

私はそれをしっかりと認識しなければならない。

 

 

Twitterで面白いエピソードを見かけた。

子供が「喉かわいた」と言ってきたら、お茶をあげるのではなく「喉乾いたんだね」って返して終わりにする。

何かが欲しいなら、「○○ちょうだい」って言わなくちゃ、と。

 

ちょっと欧米っぽさがあるが、この教育のとしては「自分の意思や希望を口に出来る子」になるということが考えられる。

そして、として友達に対しても忖度せずに、親にされたのと同じような対応をして嫌われるということが考えられる。

(実際にそうなってしまったという、毒エピソードもあった)

 

何事にも薬となる面と毒となる面があるなぁ、と考えさせられたエピソードであった。

将来、知識の量が増えれば、自らの薬で自らの毒を相殺する自浄作用が出来たりもするのだろうけどね。

 

 

教育者としての親 

そもそも、私は邪道の人間である。

物事を学ぶ段階で守破離という3段階があるとすれば、私は常に破を検討している。

習いながら、「こうしたら、楽できそうだな・・・」と、破を検討するような感じである。

これは、私が成長する過程の中で身に着けてきた特性であり、短所であり、長所でもある。 

だが、これをいきなり子供にさせるのは大いに毒となることだろう。

 

だから、正道の教育に悩んでいるのだろう。

「ルールを守る」

この言葉を聞いたときに、違和感を感じるような人間である。

これからスタンダードに正道を学ぼうとしているナルには、少し毒が過ぎる気がしているのだ。

  

私はこれまで育児にかかわってきたように、教育にも係わっていくべきなのだろうか。

こんなに、毒性が高いのに。

まあ、ぐだぐだ考えたところで始まらないので、私は教育についてこれからも考えていかなければならない。

そして、暗中模索であろうと五里霧中であろうと試行錯誤であろうと、進まねばならないのだ。

 

 

ただ、ひとつだけ。

私もまた未熟であるということを認めるようにしよう。

方法が間違っていたら、謝って、正しい知識に修正してやらなければならない。

親という、大人という地位に胡坐をかかずに、子供たちに真摯に向き合い続けなければならないのだろう。

 

自らの過ちを認め、正す。

今の私には、それが正しい教育者としての親の在りようの様に思えている。

 

共にシコウサクゴしようじゃないか。 

親子なんだから。 

 

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