「学校で育児を教えよう」 育児断絶社会を憂う
発見と驚きの日々
子供が生まれて育児していると、毎日が発見と驚きの日々である。
知らないことや試行錯誤の連続だ!
ああ、親になるのって、子供を育てるのって大変だし楽しい!
だがふと気づいた。
なんで発見しないといけないんだよ!
なんでこの喜びも苦しみも、教えられて無いんだよ!
学ぶ場所が無かったんだよ!
なんで親になるまで分からないんだよ!
そんなことに気付いたのである。
『育児』が断絶した社会
もう身近に子供がたくさんいる時代ではない。
かつては、育児の知識というのは実際に赤子の子守りをしたり、歳の離れた子供同士で遊んだり面倒を見たりして、実践を伴いながら自然に学んでいたのだろう。
だが、核家族化と個人主義化の進む現代社会では、育児の知識の伝達経路が断絶している。
結婚して子持ちとなったかつての友人たちとは話が合わず疎遠になる。
たまに会っても実感できない子育ての苦労話を聞かされてうんざりしたり、一般論で的外れなアドバイスをしてみたり。
自然と育児してないクラスタで集まるようになったり。
系統立てた知識がないものだから、おかしな断片情報ばかり頭に残ったりもする。
『育児』については、各自で自習してください
考えてみると、私も赤ちゃんを抱っこしたのって、長男ナルが初めてだった。
友人や親戚の子供で機会はあったんだけど、恐ろしくてとても抱っこさせてくれと言えなかった。
我ながらそんな状態で、よくもまぁ長男ナルの時に一歩を踏み出したものだと思う。
そもそも育児は、人類が何万年も繰り返している最も大切な行為のはずである。
どこかで多くの研究がなされ、検証もなされ、ノウハウも積み上げられているはずなのだ。
それなのに、現実的な育児の実践の場では、自分が育てられた方法の模倣(自分の親の真似)と、両親の自習頼みなのである。
だれもマニュアルも配布してくれないし、OJTは始まるのに上司はいない。
仮免許状態で、いきなり公道でレーススタートである。
これはなんというか、そんな部分だけ動物の本能的な部分を信頼しすぎだし、頼り過ぎである。
『育児』を学校で教える
こんな時代なのだから、早くから「育児」を学校で教えるべきだと思う。
そうでないから、親になって実際にやってみないと分からないこと多すぎなのだ。
いちいち、発見させられる羽目になるのだ。
出来れば、実際の育児の場は発見ではなく、確認の場であるべきだと思う。
あ~ これ授業で習ったわ。
あ~ 本当に寝ないんだね。
あ~ イヤイヤ期ってマジで「いやいや!」って言うんだな。
あ~ 本当に子供による個人差でかいわ~
あ~ マジで大変!
育児の知識が社会全体に広がることのメリットは大きいと思う。
昨今の子連れや子供への不寛容さも、このあたりの無知に根本的な原因があるんじゃないだろうかと感じるからだ。
父親の育児参加ももっと自然な流れとなる事だろう。
また、育児は育自である。
育てられている真っ最中の子供に育児を教えることは、自分をセルフプロデュースする手段ともなるはずである。
毒親の影響を抑え、自らを育てるノウハウともなってくれるはずである。
育児を教えることは、結婚や子供を産むことを決して強制するものではない。
ただ、我々は知るべきであり、学ぶべきなのだ。
子供は社会を構成する一員であり、かつては自分も子供だったのだから。
そんなわけで、学校で時代とともに変わる道徳なんていう糞価値観を子供たちに押し付けるぐらいなら、人類にとって普遍である育児についてしっかり教えたほうが良いんじゃないかなと思う。
育児について学校で教えないのって、この期に及んで「育児は女性の仕事だから」って部分は無い?
この国の偉いジジイはそんなこと考えてない?
本当に?